ディーゼルゲート事件
しかしそのピエヒも監査役会の会長になってからは次第に影響力は低下した。2015年4月にピエヒは、フォルクスワーゲン取締監査役会の会長を辞任した。当時のフォルクスワーゲン・グループ会長のウルフガング・ウインターコルンの再任に反対したものの、他の監査役会メンバーが賛同せず孤立した結果である。そしてピエヒが辞職したその月の後半に、アメリカでのディーゼル・エンジン制御の不正問題が発覚した。
この事件によりフォルクスワーゲンは約300億ユーロ(3兆5000億円)の損害を受け、自動車メーカーの歴史上最も深刻な危機を引き起こした。
ピエヒがディーゼル排気ガスの違法なソフトウェアの存在を知っていたという証拠はない。しかし、彼はしばしば高レベルの技術的な必達目標をエンジニアに求め、エンジニアを追い詰める社内風土を作ったとして非難されている。ピエヒ門下の優等生であり後継者のウルフガング・ウインターコルンもまたピエヒ同様の企業統治スタイルであったが、最終的にピエヒはウインターコルンを否認している。
取締監査役会の会長を退任しフォルクスワーゲンに影響力がなくなり、ポルシェ持株会社の監査役会でも一族のメンバーと対立を続けたピエヒは、自分が持つ莫大なポルシェ、フォルクスワーゲン、オーストリアにおけるフォルクスワーゲン販売会社などすべての株式を一族に売却し、ビジネスライフから完全に離れた。
ポルシェ一族
ポルシェ一族にとって、戦前に創立されたフォルクスワーゲンはヒトラーの協力があったとはいえ、ダイムラー・ベンツやアウディなど、他の大手自動車メーカーが無視する中で創立されたフェルディナント・ポルシェの会社である。
戦後は一旦は別企業となったが、一族がフォルクスワーゲンの部品を使用してスポーツカーのポルシェ356を作り上げ、さらに正式にフォルクスワーゲンの取引先となった。さらに911を世に出して世界に名だたるスポーツカーメーカーとしてポルシェ社を確立させ、成功をおさめたがフォルクスワーゲンは、一族のアイデンティティそのものである。
その思いが特に強烈だったのが女系の孫であるピエヒだった。ポルシェ一族は、1971年以降は直接的な経営から手を引き、持株会社を運営している。
2005年にそのポルシェ社はフォルクスワーゲン社の株式の20%を取得。2008年11月時点で持ち株比率は約43%となり、事実上同社を傘下に収めた。その後も株式を約75%まで買い増す方針であったが資金繰りに行き詰まり、逆にフォルクスワーゲンがポルシェを逆買収するかたちで、2012年8月1日にフォルクスワーゲンが全てのポルシェ株式を取得し、ポルシェはフォルクスワーゲンの完全子会社となった。
しかし、ポルシェ社、フォルクスワーゲン社の株を大量に所有するのはポルシェ家の持株会社であった。持株会社はその他に、オーストリアのフォルクスワーゲン販売会社の株式や関連会社の大株主であり、間接的にフォルクスワーゲン・グループのオーナー家であることは紛れもない事実で、その資産は45兆円以上といわれている。
戦後のポルシェ社を創立したのはポルシェの長男であるフェルディナント・アントン・エルンスト(フェリー)・ポルシェだが、その事業に協力したのがピエヒの母のルイーズ・ピエヒであり、第3世代がフェルディナント・アレクサンダー(ブッチィ)・ポルシェ(ポルシェ・デザイン主宰)、ヴォルフガング・ポルシェ (現ポルシェ監査役会会長)、そしてフェルディナント・ピエヒとなる。
空前絶後の存在Dr.ピエヒ
第3世代で、エンジニアとして祖父と同様の資質、才能を受け継いだのはフェルディナント・ピエヒで、偏執狂的で、非妥協的で、独裁・独善的な性格ではあるが、自動車エンジニアとしての実力は傑出していた。同時に経営者としてもクルマの品質や生産技術への取り組みには妥協を許さず、結果的にドイツの民族系中堅自動車メーカーの一つというポジションから、野望であった世界No1の自動車メーカーになることを実現している。
エンジンでは5気筒エンジンの研究・開発、ポルシェ時代の水平対向6気筒、6気筒を直列化した917用の水平対向12気筒、フォルクスワーゲン時代の4気筒、狭角V型5気筒、狭角V型6気筒、W型8気筒、W型12気筒、W型16気筒というモジュラー・エンジン構想を推進した。
生産技術では、トヨタ生産方式の採用、ホットプレス材の大幅導入、生産ライン段階での品質の徹底など、他社では実現できていない領域まで踏み込んで生産品質を向上。エンジニア、経営者といった領域を超えた強いリーダーシップで業界をリードし続け君臨した。
またポルシェやアウディでは実験部長を務めた経験も長く、クルマの評価能力も傑出して高かった。フォルクスワーゲン・グループ会長時代にも、ヨーロッパ、アメリカ、中国、日本で定期的に試乗・評価会を開催し、競合モデルも自らステアリングを握って評価した。
2代目の6N型ポロの日本導入時には、評価会でブレーキの効きが悪いためホイールサイズを1インチアップしてブレーキサイズを上げ、さらにリヤゲートを閉めるときに小柄な日本女性では手が届かない、という理由でグリップハンドルの追加を自ら指示している。そのためすでに量産に入りつつあった右ハンドルモデルの生産ラインを止めて仕様変更を行ない、ラインオフは大幅に遅らせたこともあった。
ピエヒは、個人的には日本趣味で、飛騨高山の合掌造りの家を高く評価し、ドイツの自宅でも日本風庭園を作らせたりしている。
家庭は2回の結婚、さらに婚外関係もあり合計12人(13人の説も)の子供がいるとされる。最後に結婚した、子供の保育担当だったウルスラとの間にも3人の子供を設けている。ウルスラはフォルクスワーゲン監査役会メンバーにもなり、公私混同だと非難を受けている。
フェルディナント・ピエヒは、そのエンジニアとして血統と才能、独裁的かつカリスマ性を備えた自動車メーカー経営者という二面性を持つが、自動車業界においてヘンリー・フォードを上回る、空前絶後の存在であったことは間違いないだろう。