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フェルディナント・ポルシェの孫であり、最終的にフォルクスワーゲン・グループ会長・CEO、取締監査役会・議長、そしてフォルクスワーゲン・グループの持株会社であるポルシェ・ホールディングの議長を務めたフェルディナント・ピエヒ氏が2019年8月25日、82歳で急逝した。
ポルシェの孫として
バイエルン州ローゼンハイムのレストランで妻のウルスラと食事中に突然倒れ、病院に急送されたがそのまま死亡が確認された。あまりにも突然の死であった。
フェルディナント・カール・ピエヒは、1937年にドイツ、オーストリア圏で有名な自動車エンジニアのフェルディナント・ポルシェの長女ルイーズとウィーンの弁護士アントン・ピエヒの三男としてオーストリア・ウイーンで誕生した。父親のアントン・ピエヒは長年ポルシェの友人であり事業のパートナーであった。母親のルイーズはポルシェのビジネスをサポートし、その後長くポルシェ、フォルクスワーゲンの株式を所有するなど、グループ会社の経営に関与した。またアントン・ピエヒは1945年、ポルシェ博士とともに戦争犯罪人としてフランスにより逮捕された経歴もある。
フェルディナント・ピエヒは、ポルシェという著名エンジニアの孫として生まれたときから自動車と深い関わりが運命づけられていた。スイスの寄宿学校を卒業した後、チューリッヒ工科大学で機械工学を学んだ。F1エンジンの研究に関する卒業論文で博士号を取得し、1951年に死亡した祖父のポルシェ博士の後継者となった叔父のフェリー・ポルシェの経営するポルシェ社に1963年に入社した。65年からは開発を担当し、71年には開発責任者に就任している。
アウディNSUのピエヒ
この間に初代911の水平対向・空冷6気筒エンジンの開発を行なった。その後はレーシング・スポーツカー、906、908、そして917の開発を指揮している。ポルシェ社の売上の多くをこうしたレーシングカーの開発に投入したため、ポルシェ一族から非難を受けたが、空冷の水平対向12気筒を搭載したポルシェ917の圧倒的な性能をグローバルで実証すると、誰もがその実力と成果を認めざるを得なかった。
またこの間に、フォルクスワーゲン・ビートルの後継モデルの開発を受託し、ピエヒ自らが設計したリヤエンジンのプロトタイプ「EA266」を製作している。だが、これはビートルの後継モデルとして採用されなかった。
1972年に、ポルシェ一族の決定により、すべての家族はポルシェ社の直接的な経営から手を引くことになった。そのためフェルディナント・アレクサンダー(ブッチィ)・ポルシェはポルシェ・デザイン社を立ち上げ、ピエヒはシュツットガルトに設計事務所を設立。1974年に発売されるメルセデス・ベンツ240D 3.0(W115)に搭載した画期的な5気筒ディーゼルエンジン「OM 617」を設計した。
1972年にピエヒはインゴルシュタットにあるフォルクスワーゲンの子会社「アウディNSU」(現在のアウディで当時はアウディNSUと呼称)に技術開発部長として登用された。
そこでピエヒは辣腕をふるい、1976年に自ら設計した5気筒ガソリンエンジンを搭載した最初の乗用車「アウディ100 5E」を発売した。その後1983年にアウディNSUの副会長に任命され、1988年は最高経営責任者として就任。アウディ100の空力性能世界一を実現するため、ピエヒはフォルクスワーゲンを始め、複数の風洞を駆使し、そのデータを社内でも開発メンバーに知らせず、秘匿したのも有名なエピソードのひとつだ。
またピエヒはアウディ・ブランドの向上を図るため、他社では成し得ない先進技術を惜しげもなく投入した。1980年に常時4輪駆動のクワトロ、1989年のディーゼル・ターボ直噴のTDIエンジン、ボディ錆を解消したフル亜鉛メッキのオール・スチールボディ、オールアルミ製のボディ&骨格(ASF)を持つA8の開発、ヨーロッパNo1のクルマを実現するA1プロジェクト(アウディA4の実現)などを矢継ぎ早に推進し、アウディ・ブランドを高めた。
そしてアウディ社のステートメント「技術による先進(Vorsprung durch Technik)」を文字通リに実現した。結果的に、2011年の世界のプレミアムカー部門ではメルセデス・ベンツを追い抜くまでに至っている。