【舘さんコラム】2020年への旅・第23回「次世代車をめぐる旅その2 ハンドル争奪戦争勃発」

舘内端コラム2020年への旅 第23回 003
自動運転自動車メルセデス・ベンツF015のモデル。模型のうちは良かったが、まさか実際に走るとは

シーマは、私は…
前回から始まった【次世代車をめぐる旅】は、寄り道をしたおかげで早くも暗礁に乗り上げてしまった。2代目シーマを試乗し、東名高速道路で自動運転を楽しんでいた私は、用賀料金所を目の前にして自動運転と格闘することになったのだ。

当時の交通法規は、まだ自動運転を考慮したものではなく、ハンドルから手を離しても自動で車線をキープし、車速一定で走ることができた。ちなみに現在はハンドルから手を離すと自動運転は解除される。それをいいことに、私はローダーの後ろに着いて追従モードにセットすると、腕組みをして、足はシートの座面に載せてあぐらをかいたのだ。不謹慎そのものである。

海老名SAを出発したシーマは、用賀料金所を目指して車線をキープし、ローダーの後ろに行儀よく付いて走った。だが、料金所が近づき、ローダーが進路を変えて目の前からいなくなり、白線も消えると、シーマは私のインプットした指令通りに100㎞/hまで加速しつつ、白線を求めて左に旋回したのだ。ふと左側を見ると白線がある。シーマのカメラは、これをセンシングしたのだ。それと気づいた私は、まずはブレーキペダルを踏んでオートクルーズを解除した。続いてハンドルを握り直し、進路を料金所のゲートに向け、難を逃れた。

日産は自動運転車を近々に発売するという。この当時から自動運転システムの開発に注力していたのだから、当然だろう。だが、当時のシーマの半自動運転のレベルで現在の自動運転システムを考えてはいけない。革命ともいえる進歩があったのだ。それは、主に画像や音声などの認知機能の恐ろしいまでの進歩である。

私は、2015年の3月にかつての認知機能からは想像できない機能をもった自動運転車に乗ることができた。運転はできなかったので、試乗ではない。それはメルセデス・ベンツのF015と呼ばれるコンセプトカーである。

自動車評論家は不要か

メルセデス・ベンツF015にはサンフランシスコで乗った。ロボットの運転するF015に同乗試乗したというか、そういうことだ。しかし、それではあまりにも悔しいので、「私は日本では少しは知られた自動車評論家だ。この間は『トヨタの危機』という本を出して、大いに評価された。その私をさしおいてロボットに運転させるとは何事だ。私に運転させろ」と、近くのメルセデスのスタッフに言おうと思ったが、よけいバカにされるような気がして止めておいた。

Intelligent Drive Experience with the Mercedes-Benz research car F 015 Luxury in Motion in San Francisco 2015
テスト会場に現れたメルセデス・ベンツF015

だが、奇妙な体験であることに変わりはない。自動車を運転して、「ターンインでコーナリングパワーの立ち上がりに難があり、舵の操作に対してクルマの応答に遅れが出る」とか、「コーナリングの限界時にリヤタイヤが外に出るような挙動を感じる」とか、「制動の初期にツツッとディスクローターが滑る感じがある。ブレーキパッドの温度上昇がもう少し早いと食いつき感が向上するだろう」とか、これぞ自動車評論家の極致、醍醐味、真価が問われる場面で、カーメーカーのエンジニアとの楽しい会話がまったくできないなんて、哀しいではないか。

以上の体感はすべてロボットに所有権がある。運転できない私には、立ち入る権利がないのだ。それを承知で日本からサンフランシスコまで連れてきて、「乗せられて見ろ」というメルセデス・ベンツ日本は、いったい私に何を期待しているのだろうかと、少し萎縮してしまった私の脳みそで考えてみたが、良く分からない。

良く分からないが、F015の評価には少なくともこれまでの自動車評論の手法は通用しないことは分かった。また、F015は自動車評論あるいは端的に自動車の商品性の評価を評論するメタ評論的な道具であることもわかった。つまり、自動車評論とは、あるいは自動車の商品性の評価とは何かを評論するのに好都合な道具だということだ。

そこまではわかったのだが…。後が続かないので、とりあえずボロをかくさず従来型の自動車商品性評価をして、恥をかきながらF015像に迫ろう。<次ページへ>

F015のシート配列。対面で座る。誰も運転しない
F015のシート配列。対面で座る。誰も運転しない

S500プラグインハイブリッド車登場

3月22日の午後、ロスから乗り継いでサンフランシスコに着いた私は、ミッションストリートのホテル・バイタルに入った。

そこはサンフランシスコの中心街の北東の端にあたり、ホテルからはオークランドに渡るベイブリッジが見える。ゴールデンゲートブリッジと間違えて何枚も写真を撮ってしまった。また、窓の下にはフェリー乗り場が見えた。朝夕はオークランドからの通勤客で込み合う。通勤客は、自転車で、あるいは徒歩で、遠い人は、路面電車でそれぞれ職場へと向かうようである。アメリカの代表的な都市のモビリティが一望できたような気がした。

サンフランシスコでは、自動車での通勤も見られたが、交通手段はけっしてそればかりではない。他の交通手段が確保されていれば、人々は多様なモビリティを多様に使うのだ。ロサンゼルス市の交通が米国の交通の代表的な姿とは限らないと改めて思った。そして、おそらくこうした都市交通のひとつが自動運転車に置き換えられていくのだろう。それは、避けようにも避けられない近未来の自動車の姿なのだ。

しかし、人々はどんな理由で交通機関=モビリティを選ぶのだろうか。すべての人がすべて利便性やコストだけで選ぶとは思えない。たとえばフェリーではなく、私がゴールデンゲートと間違えたサンフランシスコ・オークランド・ベイ・ブリッジを自動車で走って通勤することだってできるし、路面電車の代わりに自転車を選ぶこともできる。毎日のことである。少しでも快適に、できれば楽しく移動したいと思うのは人情だろう。

では、移動の楽しみ=モビリティの楽しみとは何か。自動車好きは、タバコを買いに行くにもクルマで行く。いや、そればかりではない。用もないのにクルマに乗る。だからというわけではないが、世の中の人はすべからく自動車が好きで、乗らない人は仕方なくガマンしていると思いがちだ。しかし、移動=モビリティには多様な楽しみ方がある。

ホテルの部屋の窓からベイブリッジやフェリー乗り場を見ながらそんなことを考えていると、F015の試乗ならぬ試し隣り乗りのお迎えが来た。ホテルの入り口に出てみると、黒塗りの大きなセダンが待っている。Sクラスだ。よく見るとプラグインハイブリッドだ。海外ではS500 PHEV、日本ではS550 PHEVであった。これで会場まで連れて行ってくれる。

メルセデス・ベンツだから最上級のSクラスで迎えに来たのだと思ったが、そうであると同時に彼らにはS500 PHEVを使うもうひとつの思惑があったようだ。さすがにSクラスである。後席はどんなセダンよりも快適だった。だが、その快適さにPHEVシステムが一役も二役も買っていた。会場までの30kmほどの距離をS500PHEVはEVモードで、つまりモーターだけで一度もエンジンをかけずに走ったのである。(次回へつづく)

舘内端コラム2020年への旅 第23回 002
夕焼けの中を一人、ガレージに帰るF015。詳しい試乗(?)レポートは次回に

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