「トヨタ プリウス誕生20周年記念 プリウス物語」初代プリウスはいかにして誕生したのか

雑誌に載らない話vol197
2017年はプリウス誕生20周年にあたる。正確には初代プリウス(NHW10型)は1997年12月10日にラインオフした。「21世紀に間に合いました」というキャッチフレーズのもとで発売されたが、本音はトヨタが、1997年12月に京都で開催された「第3回気候変動枠組条約締約国会議」(地球温暖化防止京都会議:COP3)のタイミングに合わせるというPR的な思惑もあったと言われている。

トヨタ 初代プリウス

■トップダウン

初代プリウスが世界初の量産ハイブリッドカーとして登場する背景は興味深い。一般的な乗用車のようなマーケット・オリエンテッドではなく、純粋に技術的なチャレンジとして、つまりテクノロジー・オリエンテッドで企画され、トップダウンの課題に答える形で登場している。トヨタでこうした背景を持つクルマは異例であった。

豊田英二
豊田英二氏。当時豊田英二氏は会長を退任していたが、未だ大きな影響力を持ち、豊田章一郎会長と豊田達郎社長とのタッグで次世代車の開発を指示した

1993年頃、前会長の豊田英二氏が、21世紀が迫る中で中長期的にクルマのあり方を考えようという意見を述べたという。当時は豊田章一郎氏が会長で豊田達郎氏が社長という体制だったが両氏ともにこの提案に賛同し、R&D部門の副社長だった金原淑郎氏が音頭を取って先行研究プロジェクトが開始された。金原淑郎副社長は、トヨタ・ハイメカツインカムを開発し、全車両に導入して世界の自動車メーカーの常識を覆したその人である。

プロジェクトはG21と名付けられ、1993年9月にスタートした。Gは地球を意味する頭文字で、21はもちろん21世紀を意味している。21世紀に必要とされるクルマ像を考えるというプロジェクトだ。少数のエンジニアやデザイナーが集められ、まったく白紙の状態から新世代の乗用車の研究が行なわれた。

当然ながら約10年後の21世紀にあるべきクルマの姿、形は想像でしかないため、通常のマーケット主導型の商品企画という発想は無理で、研究は技術提案型にならざるを得なかった。この研究は1993年の年末に報告書がまとまり、その内容はコンパクトなサイズでホイールベースを長くし、コンパクトだがパッケージングを重視することと、燃費は当時の主流クラスであった1.5Lのカローラの1.5倍、20km/Lを目標とすることだった。この研究報告はトップに承認され、G21はとりあえず研究の役割を終えた。

地球温暖化防止京都会議
1997年12月に開催されたCO2の大幅削減を目指す地球温暖化防止京都会議はプリウス誕生の大きな契機となった

年が改まって1994年に、それまでの研究を踏まえ、資源問題と環境対応に答えるまったく新しいクルマを造るというプロジェクトが始動した。つまりトヨタの首脳部は、G21は単なる研究ではなく、次世代のクルマを造るための基礎固めという位置付けだったことが分かる。G21の研究グループは新たな体制となり、それまで技術管理部に在籍していた内山田竹志氏がリーダーに任命され、常駐のプロジェクトとして開発を進めることになった。

■開発目標の変更

じつは、次世代の技術トレンドとして、エネルギー資源や環境問題、CO2排出量に関してグローバルで注目が集まりつつあり、1993年にはメルセデス・ベンツがコンセプトカーのビジョンAを発表している。このAクラスの原型はスタディモデルという位置付けでもあり、バッテリーによる電気駆動、燃料電池の搭載などの研究ベースになり、逐次メディアで発表されていた。次世代のクルマのあるべき姿を追求するプロジェクトは、各自動車メーカーでそれぞれが取り掛かっていたのである。

G21プロジェクトでは、D-4と名付けられたガソリン直噴エンジンをまず想定した。直噴による成層燃焼+リーンバーンで燃費を改善しようとしたのだ。そしてG21用に1.5Lの直噴エンジンを採用する方針となった。これに組み合わせる変速機には最適な燃費ゾーンで走行できる無段変速のCVTが選ばれた。

しかし、その時点で新たに技術担当副社長となった和田明広氏は、開発が進行中の次世代車についてハイブリッド技術を採用するように指示したため、プロジェクトは大転換を余儀なくされた。和田副社長がハイブリッド技術を指示したのは、次世代車の燃費はカローラの1.5倍ではなく2倍にしたいという新たなチャレンジ目標を設けたからだ。

トヨタ プリウス・コンセプト
1995年の東京モーターショーに出展されたプリウス・コンセプト

この目標変更により、1.5LのD-4エンジン、CVTの組み合わせではターゲット燃費を達成できないことは明らかだった。そのためG21開発チームは、これまで展開してきた開発ではなく、新たにEV開発部の技術を受け入れることになった。

EV開発部はそれまでにタウンエース、クラウンをベースにした電気自動車を試作している。さらにそれ以前を振り返れば、1975年にセンチュリーに発電用のガスタービン・エンジンを搭載したシリーズ・ハイブリッド、1977年には、トヨタスポーツ800にガスタービンを載せたハイブリッドモデルをコンセプトカーとして東京モーターショーに出展するなど、電気駆動、ハイブリッドシステムの研究を積み重ねており、EV開発部はその流れをくんだ部署である。

トヨタ・スポーツ800ガスタービン・ハイブリッド
1997年のモーターショーに出展されたトヨタ・スポーツ800ガスタービン・ハイブリッド

この結果、G21チームは1995年の東京モーターショーのためのコンセプトカーとして、1.5LのD-4エンジン、CVTをベースに1個のモーターを搭載したパラレル式ハイブリッドを試作した。バッテリーの代わりにキャパシターを搭載していた。このシステムはトヨタEMS(エネルギーマネジメントシステム)と名付けられ、1995年の東京モーターショーに、コンセプトカー「プリウス」として出展されている。

■トヨタ・ハイブリッド・システムの登場

このショーモデルの試作と同時並行的に、G21チームは燃費目標を2倍にするという新たな課題に挑むためにより本格的なハイブリッドシステムを求めてEV開発部と一体化。より燃費性能の高い、新次元のハイブリッド・システムを求め、試行錯誤が開始された。

チームは歴史的に存在する各種のハイブリッド・システムを研究し、最終的に発電と駆動用のモーターを備えた2モーター式に絞られ、これがTHSという名称となる。駆動と発電の動力源となるエンジンと2個のモーターを使用し、駆動用モーターはエンジンの出力をアシストする一方で、減速回生によりバッテリーに充電する。発電モーターはエンジンからの動力を使って発電し、変速システムの制御機能も合わせ持ちながら、スターターモーターとしても機能する。

トヨタ・ハイブリッド・システム

2つのモーターとエンジンを結合するのが、遊星ギアを使った動力分割機構で、電気的無段変速機、eCVTとも称される。遊星ギヤ式は入力軸と出力軸を同軸上に配置できるので、コンパクトで、エンジンの出力をタイヤ駆動と発電機駆動に振り分け、回転数を制御することによって無段階変速機としても機能する。エンジンは、アトキンソンサイクルを採用し、燃費に特化した新発想のエンジンが開発されたのだ。

トヨタ アトキンソンサイクルエンジン

バッテリーとモーターの間には、直流のバッテリーと高出力の交流同期型のモーターを制御するためのインバーターを装備する必要がある。システムは複雑で、特に大きなハードルになったのはこれまではクルマでは想定されなかったインバーターと駆動用の大容量のバッテリーだ。

ハイブリッド車に必要な高性能なインバーターとバッテリーについては、インバーターはトヨタの電子制御部品工場である広瀬工場で開発・製造し、バッテリーはパナソニック(松下電池)と共同開発を行なうことになった。

トヨタ・ハイブリッド・システム

じつは、EV開発部はRAV4をベースにした電気自動車を開発・試作するために松下電池と高出力型のニッケル水素電池を開発していた。この技術を流用しようというのだ。そして1995年秋頃にプリウスの試作車が完成した。しかしこれまでにはないほど複雑な電子制御のシステムはなかなかうまく作動せず、長らくソフトウエアのトラブルシュートに追われたというが、なんとか走行テストが開始された。

トヨタ RAV4 EV
ニッケル水素バッテリーを搭載したRAV4 EV

■21世紀へGO!

ちょうどその頃に、新任の奥田社長から予定を1年前倒しして1997年中に発売せよという指示が発令された。1997年12月に京都で開催される第3回気候変動枠組み条約締約国会議に合わせて発売時期を早めたのだ。つまり、そのタイミングでハイブリッド車が発売されれば、世界的に注目を浴びることになるからだ。

こうした前倒しになんとか対応し、初代プリウスは1997年3月にTHSの技術発表を行ない、10月に正式発表が行なわれた。燃費は10・15モードで28km/Lで、同等のガソリン車の2倍の燃費を達成し、価格は215万円とされ、そして12月に発売を迎えた。

初代プリウスは高岡工場の中に作られた小さなラインで製造された。プリウスはトヨタの企業イメージを背負ったモデルではあるが、過去に例のないクルマのため、販売はそれほど期待されなかった。また、市場投入に対してのトラブルの不具合の心配もなくはなかかった。

そのため、市販にあたり特別サービスチームが24時間体制で待機し、市場での不具合には即時本社から全国に出動する体制を取り、実際にしばしば出動することになった。

初代プリウスは月販1000台という設定で、初期受注が3000台オーバーと想定より多かったが、平均すれば月販1500台程度で推移した。したがって、初代プリウスは膨大な開発工数や設備投資、製造原価から考えて赤字を前提としたモデルであり、これも異例と言えた。

また、前期型はニッケル水素バッテリーの不具合も少なくなく、最終的にこの時期のバッテリーは無償交換されている。パナソニックEVエナジー(現在はプライムアースEVエナジー)社のプリウス専用のバッテリー生産が本格的に立ち上がり、性能的に安定したのは2000年に登場する後期型になってからである。

トヨタ プリウス専用ニッケル水素バッテリー

プリウスが現在のようにメジャーな車種となるのは2代目のNHW20型からであり、NHW20型は当初から量産乗用車として企画・開発され、堤工場のメインラインで大量生産されることになる。

しかし、初代の販売実績を見る限り、次期型を開発するかどうかは大きく意見の別れるところで、これもまた経営的な決断が求められたが、最終的に次期型の投入が決定されている。

トヨタ アーカイブ
トヨタ公式サイト

COTY
ページのトップに戻る