2015年2月21日、元日産の片山豊氏が逝去された。享年105歳。片山氏は日産USAの初代社長。1954年に開催された第1回自動車モーターショー(会場:日比谷公園)の開催に尽力。日産だけでなく日本の自動車産業に貢献し、アメリカでもミスターK、フェアレディZの生みの親として知られ、1998年にアメリカの自動車殿堂入りも果たしている。
片山豊氏は1909年(明治42年)に現在の浜松市に生まれた。慶應義塾大学を卒業後、1935年、3年前に発足したばかりの日産自動車に入社。総務部配属となり宣伝を担当した。松竹少女歌劇の舞台上に10台のダットサンを登場させたり、三越百貨店の商品搬送用に日産・バンの採用を促進するなど斬新なPRを行なった。
戦後、1954年に日本の自動車メーカーが集合して初開催された「第1回 全日本自動車ショウ」(東京モーターショーの前身)は、そもそも片山氏が企画・提案し、各自動車メーカーに呼びかけ、開催の実現に尽力したものだ。
1958年には1.0L・OHV、34psの「富士号」、「桜号」ダットサン(210型)で豪州一周ラリーに挑むラリーチームの監督となり、クラス優勝を遂げ、当時の大きなニュースとなった。
その後日産の本格的な対米輸出がはじまり、1960年に片山氏は新設された日産USAの社長としてロサンゼルスに赴任し、市場にダットサンのブランドを知らしめた。そのフランクな性格から、「ミスターK」として敬愛された。
そして1969年発売のフェアレディZのプロジェクト推進役としても貢献。片山氏は米国日産を設立してからも多くの人に受け入れられるスポーツカーの企画を頭の中で企画していたという。それがフェアレディZのコンセプトとして結実する。
すでに商品化されていた他の日産車のコンポーネントも活用し、ロングノーズ・ショートデッキのスポーティなボディを載せた、誰でも気軽に、爽快にドライブできるスポーツカーである。それがフェアレディZだった。アメリカ市場を中心にヒットし、月産4000台のペースで販売され、スポーツカーでは異例の専用生産ラインまで作るまでに至った歴史がある。
アメリカのフェアレディZクラブでも「Zの父」として知られ、1998年には「自動車先進国の米国で、多大な偉業を成し遂げられたのは、自動車への強い情熱と長期的な経営視野と豊富な経験、そして何よりも国境を越えて異郷の人々を愛し、理解し、協力と支援を惜しまなかった高潔なパーソナリティによる賜物」との賛辞とともに、米国自動車殿堂入り果たしている。