日本の伝説のプロ・ドライバー、高橋国光選手が2022年3月16日に逝去した。享年82歳。
生きる伝説ともなっていた高橋国光選手は、日本の自動車産業の興隆と歩みを同じくしてモーターレーシングの世界で活躍してきた。
高橋国光選手が注目を浴びたのは、オートバイのレース、第3回浅間火山レース(1959年)であった。浅間山の山麓の非舗装の火山灰のコースで開催された日本におけるレースの曙の時代のこのレースで、高橋選手は500ccクラスにイギリス製のBSAで出場し、2位に入賞したため、すでにホンダのワークス・ライダーとなっていた田中健二郎、北野元選手に続いてホンダと契約し、プロ選手としてのスタートを切った。
ホンダは1960年からオートバイのロードレース世界選手権(世界GP)に参戦を開始し、日本人ライダーが世界に挑戦することになった。そして1961年、西ドイツGPで初優勝という快挙を成し遂げた。しかしその後、1962年のマン島TTレースでは転倒し、重症を負っている。
1964年、先輩の田中健二郎、北野元選手とともに、日産自動車の特殊車両実験部のワークス・チームに所属し、4輪レースの世界に足を踏み入れた。このワークスチームは、トヨタ、後にはマツダのワークスチームとの戦いを繰り広げており、ワークス・ドライバーは自動車メーカーの誇りと意地をかけての戦いに挑んでいた。
この時代には、高橋選手はR380、R381、R382などのプロトタイプ・レーシングカー、スカイラインGT-Rなどのツーリングカーで戦った。豪雨の富士スピードウェイで、スカイラインGT-Rで50勝目を記録したのも高橋選手であった。
1973年の第1次オイルショックで日産ワークスチームの活動が縮小された後は、レースへの出場を求めて富士グランチャンピオン・シリーズ、全日本F2選手権などで活躍した。1977年には日本で初開催されたF1日本GPではティレルの中古マシンでスポット参戦し、9位入賞を成し遂げている。
1980年代にはプロトタイプ・スポーツカーによる全日本耐久選手権に出場し、1985年から1987年まで、ポルシェ956、962Cのステアリングを握り3連覇を果たし、1989年は4度目の年間タイトルを49歳で獲得。またクレマーチームよりル・マン24時間レースにも出場した。
1990年にはチーム国光を立ち上げ、全日本ツーリングカー選手権(JTC)ではスカイラインGT-R(R32型)で活躍。また1994年にはホンダ栃木研究所のNSXでル・マン24時間レースに出場し、55歳にしてGT2クラス優勝(総合8位)を果たしている。
1999年までレースドライバーとして現役を続け、全日本GT選手権でNSXに乗り、なんと59歳で優勝を経験している。
レース引退後は、チーム国光のオーナーとしてスーパーGTにNSXの参戦を継続していた。
高橋選手は、日本のモータースポーツの黎明期からプロのワークス・ドライバーとして活躍したが、自動車メーカーのワークスチーム同士の戦いでは敗北は容認されず、比類のない重圧の下でレースに出場しており、現在のドライバーでは想像もできない経験を積み重ねてきた。
ワークスチームを離れてからは、レースの環境は大きく変わり、プロトタイプ・レーシングカーやフォーミュラカーなど、様々なカテゴリーに出場したが、いずれもスポンサーに恵まれたのは、その人気、人徳によるところが大きい。
ドライビング・スタイルは、現在のドライバーがデータロガーの走行データに依存するのとは対極的な徹底した感覚派、フィーリング派であり、そのゆえに天才ドライバーと称された。こうしたユニークな天衣無縫のキャラクターは、まさに空前絶後の存在であった。<レポート:松本晴比古/Haruhiko Matsumoto>