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今から84年前、1934年6月22日に、現在のポルシェAGの前身ポルシェ設計事務は、「ドイツ帝国自動車産業連盟」(RDA)から国民車(フォルクスワーゲン)の設計と製造を委託された。このことは天才的な自動車エンジニアのフェルディナンド・ポルシェ博士にとって、最も重要なできごととなっていく。
国民車構想
開発委託を受けたこの時代の政治情勢を少し紐解くと、発注の前年、1933年に第1次世界対戦後に成立したワイマール共和政府のヒンデンブルク大統領により、アドルフ・ヒトラーがドイツの首相に任命されている。ヒトラーは首相となってまもなく、大統領令と全権委任法によって憲法を事実上停止したうえに、対立政党の禁止など、ヒトラーを中心とする独裁体制を確立していく。
また、同年ヒトラーはベルリン自動車ショーでアウトバーンの建設推進を発表し、それまでの自動車税も撤廃している。そしてさらに、富裕層だけではなく一般の労働者でもマイカーを購入できるようにとフォルクスワーゲン(国民車)構想を打ち上げたのだ。
ヒトラーはクルマが大好き
とはいうものの経済情勢は厳しく、既存のドイツの自動車メーカーにとっては新たな国民車をゼロから開発するのは難しい状況だった。そのため、ナチス政府の指示により「ドイツ帝国自動車産業連盟」(RDA)は、設計・開発をポルシェ設計事務所に発注したのだ。
翌年、1934年8月にヒンデンブルク大統領は死去。するとヒトラーは首相官邸、大統領府の両権限を統合して国家元首となり、名実ともにドイツの独裁者となった。
国家元首となったヒトラーは世界恐慌の影響で大きなダメージを受けたドイツ経済を安定、回復させ、さらに多数の失業者を解消することを政治テーマとし、広範囲にわたる公共事業を行ない着手していた高速道路(アウトバーン)建設も加速させた。
またヒトラーは、自分では運転はしないものの、クルマが大好きで、金融恐慌で苦境に陥ったドイツ自動車産業の育成政策を行なったのだ。
オペルは1929年にアメリカのGMに買収され、また、経営危機に陥ったザクセン州の中規模自動車メーカー、DKW、アウディ、ホルヒ、ヴァンダラーの4社は、政府主導のもと1932年に統合し、アウトウニオンとなり、政府の支援を得て存立するなど、先行きは不透明な時代だった。
ポルシェのトラクター
この当時、経済情勢が厳しいこともあり、世界中の自動車メーカーは手ごろな価格の大衆車生産を考えていた。この時すでに、フェルディナンド・ポルシェ博士は、ダイムラー・ベンツを始め多くの自動車メーカーの開発エンジニアとしての実績を積み、中小メーカーのために7台のコンパクトカーやスモールカーの設計を請け負っていた。その一方で、アウトウニオンのグランプリ・レーシングカーの設計なども行なっていた。
ポルシェ博士は、もともと超高性能のレーシングカー以外に、農業用トラクターや誰もが購入できるコンパクトカーの開発にも深い関心を持っていたので、ナチス政権が提唱した国民車開発を受注したのも、ある意味で最適だったといえるかもしれない。
こうしてポルシェ博士は、大衆車構想のある自動車メーカーに対し、過去に試作したものや、構想を練ったコンパクトカーの知見をベースにして、1933年に国民車(フォルクスワーゲン)のコンセプトカーを開発している。そして1934年1月、ドイツ運輸省に「ドイツ国民向け自動車のためのスタディ(習作)」として提案を行なっている。
プロトタイプの完成
当時のドイツ政府の描く国民車とポルシェ設計事務所の構想が合致し、このスタディは政府によって認められ、提案から5ヶ月後の1934年6月、ポルシェ設計事務所は、政府主導の国民車開発プロジェクトを正式に受注している。受注当初の依頼契約では、国民車(フォルクスワーゲン)のプロトタイプ1台を製作することになっていたが、RDAはフェルディナンドの自宅ガレージで3台を組み立てるように依頼したエピソードがある。
この時、ナチス政府が考えた国民車とは、大人2名、子供3名が乗って、100km/hでアウトバーンを巡航でき、燃費は7.0L/100km(14.3km/L)で、信頼性が高く長期間大きな修繕を必要とせず、維持費が低廉であること、そして価格は現代の価値に換算して約80万円とされた。つまり当時の技術水準では到底実現不可能なスペックであったのだ。
V1(V=試作車)と名付けられた最初のプロトタイプは正式な開発計画のスタートからちょうど1年後に完成し、フェルディナンド・ポルシェ博士は1935年7月にRDAの技術委員会に対し、このV1モデルを提案。その一方でコードネームV2が与えられた2番目のカブリオレ・プロトタイプは1935年12月に、最初のテスト走行を開始している。
3台目のプロトタイプ(コードネームV3)の組み立てが1936年2月に始まる頃、RDA内部ではこのプロジェクトに対する反対意見が起こり始めていた。その理由は単純で、ポルシェ博士が開発したバックボーンフレームとトーションバー・サスペンション、空冷水平対向4気筒エンジンを搭載した斬新なフォルクスワーゲンは、既存のモデルに脅威をもたらすものと捉えたからだ。言い換えればRDAは、既存の自動車メーカーの利益代表であったわけだ。
しかしRDAのこの手のひら返しの反対にも関わらず、このプロジェクトは政府の支援を受けていたので、1937年にはVW30と呼ばれたプロトタイプ30台が当時のダイムラー・ベンツ社で生産され、ドイツ全域で240万kmにおよぶ大規模なテスト走行が開始されている。
ドイツ・フォルクスワーゲン製造社の設立
政府は、国民車(フォルクスワーゲン)構想をポルシェ設計事務所に設計や開発を委託したが、製造は各自動車メーカーによる合弁事業として生産する計画であった。だが、一転して当初の考えとは逆に、専門のメーカーで組み立てることを決定してる。その結果、1937年5月にドイツ・フォルクスワーゲン製造社(略称Gezuvor)が設立されることになった。
フェルディナント・ポルシェ博士は、この新会社の経営に加わり、そして1938年5月にファラースレーベン(現在のウォルフスブルグ)で予定されていた生産開始に先立ち、この新会社には、生産工場の企画立案と技術開発を政府から依頼されていた。そのため、ポルシェ博士は大量生産の先進国であったアメリカの自動車産業を2度視察しに出掛け、最新のノウハウと生産工程の基準を学んでいる。
1938年後半には、生産型モデルに近いプロトタイプVW38の施策が行なわれた。と同時に、政府はフォルクスワーゲンの購入を希望する労働者は、1週間に5ライヒスマルクを積み立てることで可能した。その間に、ドイツ政府の「Kraft durch Freude」(喜びを通じて力を)というスローガンの一環として「歓喜力行団の車(通称はKdF)」と名付けられた。もちろんこの分割積立方式でクルマを入手できるという政策は労働者から大歓迎を受けている。
国民車KdF
1938年年5月にブラウンシュヴァイク(ウォルフスブルク)で製造工場の定礎が行なわれ、その会場でVW38プロトタイプのセダンとカブリオレを発表した。ヒトラーは上機嫌で賞賛と国民車普及の演説を行ない、生産型の車名をKdFと正式に命名した。
KdFはすべての人々のためのクルマで、ごく平均的な収入の人でも手軽に手に入れることができる夢のクルマだと考えられ、約34万人が積立金の支払いを開始したが、第2次世界大戦が勃発したため、実際には1台も納車されることはなかった。
1939年になると、ポルシェ博士はKdFと並行して、フォルクスワーゲンの派生モデルの開発に着手した。これらの派生モデルは軍用を目的としたもので、ジープ型のキューベルワーゲン、水陸両用車のシュヴィムワーゲン、指揮官用の指揮車は終戦までに合計で6万台以上が生産されていた。
ビートルの誕生
フォルクスワーゲンをベースにしたもうひとつのモデルは、1939年に作られたタイプ64「ベルリン・ローマ・ワーゲン」だ。これは1939年9月に予定されていたベルリン・ローマ間の長距離レースに向けて開発されたKdFのモータースポーツ仕様で、戦後のポルシェのスポーツカーモデル、356の原型として知られている。
ベルリン・ローマ・ワーゲンはアルミニウム製ボディに、フォルクスワーゲンのパワーユニットを改良した水平対向エンジンを搭載し、最高速度は145km/hに達したという。
しかし、集著のようにドイツの敗戦により、ドイツ・フォルクスワーゲン製造社は工場も大きな損賠を受け、崩壊の危機に直面した。だがしかし、占領軍の工場を管理する立場に立ったイギリス軍将校の尽力により工場を復旧し、1945年夏から生産開始を再開することができた。この時生産されたのがフォルクスワーゲン・ビートルである。
さらに、元オペル幹部であったハインリヒ・ノルトホフが最高経営者に就任し、彼の経営手腕の下で、西ドイツ国内、その後はアメリカを始め、輸出で大きな成功を収め、外貨を獲得し、戦後の西ドイツ経済の復興に大きく貢献することになった。
フォルクスワーゲン製造社は、量産型タイプ1(ビートル)の生産を1945年の夏に開始し、生産期間と生産台数においては、周知のようにとてつもない記録を打ち立てている。そして最後のビートルは2003年7月にメキシコ工場からラインオフされ、ビートルの累積生産台数2150万台に達し、自動車史上未曾有の記録を作ったのだ。