【舘さんコラム】2020年への旅・第17回「充電の旅シリーズ17スーパー・セブンに聞け 第15話」鼻つまみの街パリ・その1

舘内コラム17回 電気自動車 パレードの最後を飾ったEVミゼットII
1998年、フランス自動車工業会設立100周年を記念する大パレードの最後を飾ったEVミゼットII

EVミゼットIIシャンゼリゼを走る
ノルウェーの首都、オスロからパリへ。エッジ舘野はMr.舘内を追った。オスロでは吐く息が白かったが、パリは10月初旬だというのに半袖が似合った。地球温暖化は、花のパリも確実に傘下に収めていた。

Mr.舘内はパリ・モーターショーを取材するというのだが、どうも関心はモーターショーよりもパリの街そのものにあるようだった。訊けば、1998年以来のパリだという。なんと16年ぶりであった。それまでは年に数回は訪れていたパリだったが、取材の中心はドイツになり、米国に移っていった。大好きなフランスを訪ねる機会はほとんどなくなっていた。

舘内コラム17回 電気自動車
パリの充電器に手を突っ込み感電するMr.舘内。1998年にはすでにパリには充電スタンドがあった

「ドゴール空港からのタクシーの窓から外をきょろきょろしちゃったよ」と言うのだが、無理からぬことだった。16年前といえば、Mr.舘内の作ったEVミゼットIIがあのシャンゼリゼ通りを走った年である。日本の手作りの電気自動車がシャンゼリゼを走ったのは、おそらくこの時が初めてに違いない。しかも、フランス自動車工業会設立100周年を記念する大パレードに招かれてのことだった。

シャンゼリゼを自慢そうにEVミゼットIIが走る数日前まで、Mr.舘内とその一行はミシュランの主催する第1回のチャレンジ・ビバンダムに参加、本社のあるクレルモンフェランからパリまでのエコカー・ラリーに参加していたのだった。

ラリーは、クレルモンフェランからパリまでのおよそ400kmを2日間で走る。その途中にサーキットでのエコランやゼロヨン大会を行ない、さらに古城探検やらワイン飲み比べなどがあり、パリ警察のパトカーや白バイに守られながら、パリのコンコルド広場に到着。当時のFIAの本部での晩餐会で終わるものであった。

Mr.舘内と彼にはめられたメンバーたちが作った日本EVクラブのEVミゼットIIは、騒音測定部門とエコラン部門で優勝した。鉛電池から、当時としては最先端のニッケル水素電池に載せ替えたのが功を奏した。

シャンゼリゼを彩る3000台の大パレード
コンコルド広場に着けば、FIAの主催する大晩餐会が待っている。そこでたっぷり美味しいものを食べようぜというMr.舘内の甘い言葉にのせられて、メンバーたちは待っていたのだが、お祝いのシャンパンこそ出たが、食べ物はなく、腹を空かせてホテルにチェックインするも、レストランは営業を終えていたという。

パリまでのドライバーを務めた自動車ジャーナリストの御堀直嗣(みほり なおつぐ)は疲れ果て、そのままベッドにもぐりこんで、結局、夕食はとらずじまい。それどころか、翌朝はパレードの出発が早いから早朝に凱旋門に集合せよとの主催者の命令を素直に聞き、そうしたものだから、朝食も食べられず、じっと出発を待っていたという。だが、主催者の言うことは例にもれず、いい加減でパレードの順番が回ってきたのは午後2時だった。

凱旋門を出発してシャンゼリゼ通りを走る大パレードは、フランス自動車工業会設立100周年を記念し、自動車の100年をも祝うものであった。フランスが「これぞ最初の自動車だ」と言い張るキュノーの蒸気三輪車こそ出てこなかったが、誕生当時の自動車から始まって今日までの総台数3000台にもおよぶ自動車がパレードしたのだった。

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自動車の100年を祝う大パレードの始まり

「いやあ。壮観だったよ。フランスの、ヨーロッパの自動車の力を見せつけられたね。こうしたことができないことが、日本の自動車文化の貧困度の高さを示しているんだ。ダメだよ。遊ばなくては。コストダウンに次ぐコストダウンにコミットメントで売上増大しか頭になくて、ガチガチになっているんじゃあ、リコールだらけで、F1がまともに走らなくて当たり前だ」とMr.舘内はいうが、その通りだ。

パレードの最後を飾ったのが、未来の自動車という意味でEVであった。そのまた最後がEVミゼットIIであった。日本EVクラブの手作りEVが、歴史に残る大パレードの最後を飾ったのであった。Mr.舘内の片腕であり、日本橋からスズカまでの470kmを一緒に歩いた御堀直嗣が緊張した面持ちで運転したのだが、彼は朝食も摂らずに、朝6時から凱旋門の近くでパレードの出発を待ち、とうとうパレードの終わった午後5時まで何も口にすることができなかった。「それでね。御堀は低血糖と脱水症で1ヶ月ほどパリの病院に入院することになったんだぜ」というのは、例によってMr.舘内のウソ八百である。

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御堀直嗣副代表が持ってきた日本とフランスの国旗を掲げて走った。見ると御堀直嗣副代表は腹が減って顔が白かった

しかし、今から17年も前に、手作りEVでシャンゼリゼ通りをパレードしたというのは快挙以外のなにものでもない。しかもフランス自動車工業会の招待を受けてである。エッジ舘野は、あらためてMr.舘内の時代を見る目の確かさに舌を巻いた。

第19回日本EVフェスティバル(2014年10月開催)

ピニンファリーナのオートリブが走る
ドゴール空港から電車をいくつか乗り換えてパリ市内に入ったエッジ舘野は、午後4時近くになってMr.舘内の宿泊するプルマン・パリ・モンパルナス・ホテルを訪ねた。ここも星4つの高級ホテルだ。近くにはレストラン・ジャスティーヌやプレス・クラブ・フランスがある。敷居の高いパリではあるが、モンパルナスはどちらかというと庶民の街だ。それが庶民派のエッジ舘野を少し安心させた。

コンシェルジェにMr.舘内を呼んでもらうと、すぐに降りてきた。少し歩こうということになった。ホテルのあるコマンダ通りを北西にほんの少し歩くと、カタローニュ広場に出た。北にパストゥール通り、西にアラン通り、南にシャトー通り、東にジャン・ザイ通りと、いくつもの通りに囲まれた大きなロータリーである。ちなみにパストゥール通りを北に向かうとエッフェル塔に行き当たり、セーヌ河に出る。

そのロータリーに沿って3台のオートリブが駐車していた。ピニンファリーナがデザインしたEVである。いずれも銀灰色に塗られたオートリブは、だいぶ汚れていた。中の1台はフロントのバンパーに傷があった。よく乗りこまれているという印象を受けた。

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パリの街のオートリブ。01,02とナンバーが付いたポールがコンセント。返却時には、ここにケーブルを差し込んで充電する。2台目のオートリブは前のオートリブのバンパーにぶつけて隙間を作り、発進する(のだろうか)

「こいつはカーシェアーされているEVなんだよ。外国人には登録が面倒だが、旅行者も借りられる。レンターカーより安いし、ワンウエイだから、充電スタンドがあるところならどこでも返せる。もちろん全車、路駐だ」

Mr.舘内から説明を受けて、エッジ舘野には汚れている訳とバンパーの傷が了解できた。つまり、たくさんの人に使われているということで、事業として成功しているということなのだ。

恐ろしいパリの運転作法
それにしてもパリの人はクルマの乗り方が荒い。路上駐車では前後に隙がないほどに詰めて止める。出るときは前後のクルマにバンパーをぶつけて隙間を作る。「バンパーはそのためのものさ」とパリの人はいうが、エッジ舘野には信じられなかった。「最近はぶつけない。バレると弁償しないといけないからだってモノ知り顔のヤツらがいうが、オレはこの間もこの近くのギユミノ通りでぶつけているの見たよ」。エッジ舘野はMr.舘内の顔をまじまじと見た。どうやらウソではないらしい。

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パリのおばさまがオートリーブを借りるところ
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ルノーのEVであるZOEもちゃっかり充電している。パリでも盗電があるようだ。大目に見てやってほしい

 

 

「すごいのは凱旋門のロータリーさ。今は何ヶ所か信号ができたけど、オレが初めてパリに来た1977年なんて、ぶつけ放題。ロータリーから出るときは一番外側を走らないといけない。気が弱いと自分より外側のクルマが怖くてなかなか右に寄れないんだ。それで知らないうちに内側へ、内側へと進路を取って、しまいには凱旋門にぶつかりそうになる。それでパリに長い知人に聞いたら『かまわず外側にハンドルを切れ。何度かぶつかれば外側のラインを走れる』という」。

「ほんとうですか?」エッジ舘野は、今度は信用しなかった。「だったら凱旋門のロータリーを走ってみろよ。ガンガンぶつけてるぜ。もっとも相手もぶつけてくるから、半端じゃダメだ。勢いよくガーンってぶつける。ドアに当てちゃダメだ。怒られる。バンパー同士でぶつける。この間なんて、ぶつけた方がはじかれて、凱旋門に張り付いた」。「ウソでしょ? 」エッジ舘野は訊いた。「ウソだ」。Mr.舘内は顔色一つ変えずに言った。

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前方の半円の建物でオートリブの登録をする

 

パリが臭い!
二人は、ウソともほんとうともつかない話をしながらジャン・ザイ通りを東に向かった。そのはずれにモンパルナス墓地があった。墓地といっても、日本のそれを思い浮かべてはいけない。巨大な公園である。たわいもない話をしながら、そこを2時間近くも散歩した。

もう秋であった。日本ほどではないが、パリもいつまでも明るいわけではなく、夕暮れが来ていた。少し早いが、近くのホリデー・インのレストランで夕食を摂ることにした。

夕食を終えて、再びカタローニュ広場に戻った。家路を急ぐクルマでロータリーは混みはじめていた。「臭い!」。Mr.舘内が顔をしかめて、そう言った。エッジ舘野も「臭い」と感じた。いや、それは今ようやく感じたことではなかった。ドゴール空港からパリ市内に入り、メトロの駅から地上に出ると、すぐに感じたのだ。しかし、Mr.舘内に会うことに夢中で、忘れていたのだった。

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プルマン・ホテル・モンパルナスの前に停められた貸し自転車ヴェリブ。オートリブもワンウエイなのでトラックに乗せて配達する

「おい。臭いぞ。何の臭いだ」、Mr.舘内がエッジ舘野に訊いた。エッジ舘野はしばらく考えた。そして「昔、東京の街はこの臭いで満ちていたぞ」と思った。エッジ舘野は、学生時代を御茶ノ水駅の近くで過ごした。ロシア正教のニコライ堂の裏にある大学の理工学部に通っていたのだった。明治大学前の歩道の敷石はすべて剥がされ、機動隊と学生たちの衝突で投石に使われた。神田カルチェラタンのときだった。機動隊はそれに対して催涙弾の水平打ちで応えた。

機動隊が優勢になると、明治大学か中央大学の中庭に逃げ込んだ。当時、神田にあった中央大学は4つの門に守られた要塞であった。門を閉じると機動隊は一人も入れなかった。そこに逃げ込んだ。東京医科歯科大学から明治大学に向かう駿河台下の通りは、昼間はスモッグがかかり、視界は50メートルもなかった。御茶ノ水駅を出て右側にそびえているはずの東京医科歯科大学を見ても、その巨大な建物が見えなかった。その光景は、いまの北京や上海のようであった。昼間はスモッグで、夕方から夜にかけてはデモ隊と機動隊の衝突による催涙弾の煙で、神田の街は臭かった。45年も前のことであった。

「Mr.舘内。あのころの神田の街の臭いですよ。これって」。「うむ。パリに入って二日経つが、気づかなかった。ホテルとパリ・サロンの会場をタクシーで往復していただけだったからな。それにしても花の街パリが、鼻つまみの街じゃあ、情けないな」。二人は鼻をつまみながらパリの街の悪臭に耐え、ホテルに急いだ。

その翌日のことだった。ロビーで新聞を手に取ったMr.舘内は、紙面にくぎ付けになった。

1826年に発刊し、現在では33万部の発行部数を誇る日刊紙の「Le Figaro」の1面トップを、マニュエル・ヴァルス首相のコメントが飾っていた。一方、英国の大衆紙「The Sun」は、バリー・ガーディナー国会議員(労働党)の怒りのコメントを大きく載せていた。

「フランスもイギリスも怒っている」。Mr.舘内はそう強く思った。内容は、自動車に関するものだった。これまでの自動車の施策が大きく間違っていたというのだ。そして、その内容は、日本の自動車評論家のこれまでの主張をひっくり返すに十分なものだった。果たして二人のコメントとは何か。乞う次号。

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