【舘さんコラム】2020年への旅・第20回「充電の旅シリーズ20 スーパーセブンに聞け 第18話 灰色のドーム」

舘内端2020年の旅電気自動車コラム 001
道後温泉に着いた。ゆっくり温泉に浸かる暇もなく出発だ

ホルムズ海峡有事 自衛隊出撃
Mr.舘内は、ノルウエーとフランスの長い旅を終えて、日本に戻った。帰りの便もカタール航空であった。途中、カタールのドーハで成田行きに乗り替える予定であった。

カタールは中東の要衝であるペルシャ湾に突き出た半島だ。西にサウジアラビア、東にイラン、北にイラク、隣りはアラブ首長国連邦UAEである。みな石油と天然ガスの生産国である。カタールが近づくと、眼下に砂漠が広がった。見えるのは砂漠とペルシャ湾の灰色がかった海だけであった。その静かな佇まいを見ていると、なぜペルシャ湾沿岸で凄惨な戦争が起きているのか、不思議だった。

いずれも、ペルシャ湾の覇権と石油の利権を求めての争いであり、中東の国同士の戦いに、執拗に米国とヨーロッパが絡んだものだった。もし、ペルシャ湾沿岸の国々から石油が湧き出なければと思わないではないが、石油が湧き出るずっと以前のメソポタミア文明の時代から、ここは戦いの地であった。人間の性が変わらない限り、ここは戦いの舞台であり続けるのかもしれない。

そして、現代のペルシャ湾をめぐる戦争の原因の多くに、石油を使わなければ走れない自動車が深くかかわっている。自動車は生産された石油のおよそ50%をも使ってしまうのだ。ガソリンは連産品ではあるが、その重い事実を知るほどにMr.舘内は深く打ちのめされるのである。

自動車が石油から自由になることは、ペルシャ湾の戦争を防ぐだけではなく、世界の平和にとってきわめて重要なことなのだ。世界平和を望むなら自動車の脱石油化に取り組まなければならない。カタールから500㎞ほど東に向かうと、日本の自衛隊が集団的自衛権の発動のもとに機雷を除去するのだと現政権が息巻く海峡に行き当たる。そこがホルムズ海峡である。

中東の石油と天然ガスの多くが、この海峡を通って外洋に運ばれる。1日に通過するタンカーはおよそ20隻。運ばれる石油は1750万バレルだ。これは世界が消費する石油のおよそ20%にあたる。ことアジアに限れば、アジアの国々が使う石油のほとんどがここを通るといっても過言ではない。

ホルムズ海峡有事は、アジアそして日本の壊滅を意味する。石油が届かなければ数カ月で日本にはエネルギーがなくなる。日本の自衛隊がここを“周辺”と見なして出撃するのもやむをえないのかもしれない。日本の自動車は自衛隊に守られているのだから。

だが、これは「どの国が、どのようにホルムズ海峡を封鎖するのか」という具体性を欠いた論議である。もし、イランが機雷を敷設してホルムズ海峡を封鎖したとすれば、イランは世界から孤立する。徹底的な経済封鎖と飛行制限が行なわれ、おそらく国が立ち行かなくなる。

つまり、海峡封鎖などまったくの絵空事なのだ。自衛隊出動という既成事実を作るための方便に過ぎない。そんなことを考えるうちにドーハ空港に着いた。Mr.舘内は、クーラーがよく効いた天井まで20mはあるかというロビーの一角で、アラビアン珈琲をすすりながら、今回のノルウエーとパリの旅のメモを綴った。

舘内端2020年の旅電気自動車コラム 002
愛媛の八幡浜。高知からはあの有名な元レーシングドライバーの津々見友彦さんが加わる。セブンを追いかけてきたお二人も津々見さんに会えて大喜びであった
舘内端2020年の旅電気自動車コラム 003
ちょっと目を離すと人だかりだ。ハンドルは盗られるわ、サイフは盗まれるわ、とうとう洗っていないパンツの入ったバッグまで盗られた。ウソである

 

首都高C2中央環状線が臭い
パソコンに目をやると、エッジ舘野からメールが届いていた。パリで別れた後、エッジ舘野は一人ロンドンに向かったのだった。「ロンドンの臭い空気を吸ってみる」と人体実験を気取っていたが、果たしてどうだったのか。

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四万十川を渡る。下流ではとうとうと流れる

「ロンドンも臭いです」エッジ舘野から届いた第一声がこれだった。そして、「ディーゼル優遇策は間違いであった。ディーゼル車の駐車料金を上げるべきだ」と労働党のバリー・ガーディナー国会議員が、政権のディーゼル優遇策を激しく非難した気持ちが身をもってよく理解できたとつけ加えていた。

Mr.舘内は、「東京もパリやロンドンのように臭い町にならないことを願うしかないな」と思った。しかし、日本のTVでは毎日のようにディーゼル車の素晴らしさを宣伝している。Mr.舘内は憂鬱であった。

もう一通のメールは、ゴールデンアーム鈴本からのものだった。久しぶりに京都から東京に出てきたという。ついでに全線開通した首都高速C2中央環状線を走った様子が記されていた。出口の大井まではトンネルが続く。18㎞余のトンネルは国内最長だという。

ゴールデンアーム鈴本は、首都高速4号線の新宿からC2に入って、この長いトンルネをくぐり、大井ICに向かったのだが、「ひどく臭かった」というのだ。オフロードというよりも、泥んこ道を、そしてスマトラのジャングルを愛する彼は、こよなくスズキ・ジムニーを愛している。どこに行くのもジムニーである。それもオープンで乗る。そのまま国内最長の自動車専用トンネルに突っ込んだわけだ。そしてたまらなく「臭かった」というわけである。

自分のジムニーが臭かったわけではなかった。ディーゼル排気ガス特有のあの甘ったるい臭いだった。これだけ長いトンネルであれば、工場の排気ガスが入り込む余地はない。「臭い」のはディーゼル車の排気ガスであることは明らかだった。Mr.舘内は、「まずは排気ガスをクリーンにして、その次はCO2排出量を削減して、やがて石油フリーの自動車になっていく」という自動車メーカーと政府が描いたロードマップがガラガラと崩れていくことを想像して身震いした。そして「自動車メーカーはもう一度、原点に戻ってやり直さないとまずいぞ」と思い、深くため息をついた。

ディーゼル排気ガスで北京並のPM2.5濃度にあえぐヨーロッパ諸国の首都。10年近くもヨーロッパに遅れてディーゼル車を普及させようとしている日本。果たして本当に日本の大気はクリーンなのだろうか。

「ああ、東京よ。お前もか」。成田から灰色のドームが見えた

Mr.舘内は、ドーハから8時間ほどの飛行で成田に着いた。2週間ぶりの日本であった。入国審査を終え、資料で重くなったバッグを受け取り、税関を抜けるとほっとしたのかMr.舘内は深く息を吸い込んだ。幸い成田飛行場のロビーは空調が効いていて空気は臭くなかった。

東京に向かうバスに乗り東関道に出ると、車窓から東京のビル群が見え隠れする。そして、そのビル群をすっぽりと覆う灰色の半円形のドームが眼に入った。汚れた空気の層が幾重にも東京の上空を覆っていた。それがドームのように見えるのだった。「ああ。東京よ、お前もか」、Mr.舘内は、声を絞って呻いた。彼と彼の家族が住まう東京は、灰色のドーム状の大気に包まれていた。

舘内端2020年の旅電気自動車コラム 005
八幡浜のフェリー乗り場。セブンはセブンに追いかけられる

ドームのてっぺんは薄灰色で、地面に近づくほどに黒くなった。一番下は、ドブネズミ色であった。私たちは、グラデーションのついたあの空気を吸いながら生きているのだ。もちろん、灰色にしているのは自動車排気ガスだけではない。工場排気ガスもある。粉塵もある。だからといって自動車がその責任を免れるわけではなかった。「オレが電気自動車に目覚めたのは…」、そう呟くとMr.舘内は、はるか20数年前の自分に思いをはせた。

舘内端2020年の旅電気自動車コラム 006
またいたセブン乗り。楽しいクルマに乗る人は、どうして楽しい顔をするのだうか

東京からスズカまで歩く
40代だったMr.舘内は、ひどく自動車の行く末が気になっていた。世の中がバブル景気に浮かれ、ハイソカーと呼ばれた高級車が飛ぶように売れていた頃のことであった。石油はまだあるのだろうか。交通事故は増えないだろうか。資源はあるのだろうか。光化学スモッグ警報が何度も出ている。大気汚染はひどくならないだろうか。

だが、Mr.舘内の心配をよそに、中国の経済はまだ目覚めず、かの国の石油消費量は日本にとても及ばず、世界の石油需給は安定しているように見えた。その頃、米国ではすでに問題になっていたPM2.5も誰一人として騒がず、乗員の命を守るべくドアにはサイドインパクトバーが、ハンドルにはエアーバッグが取り付けられ始めた。自動車は順風満帆で、日本の自動車産業は世界一の生産台数を自慢していた。

Mr.舘内は、「神の啓示だ」といって詳しくは語らないのだが、彼には今日の自動車を取り巻く厳しい状況が、当時くっきりと見えていたのかもしれなかった。ある日、自動車の行く末が心配でたまらなかったMr.舘内は、東京日本橋から三重県鈴鹿市まで歩くことを決意した。国道1号線を排気ガスにまみれて歩くというのだ。1992年のことであった。当時は、まだガソリンも軽油も2000ppm近くの硫黄を含んでおり、ディーゼル車には触媒も黒鉛を取り除くフィルターも取り付けられておらず、NOxもPMも垂れ流し状態だった。そこを歩くというのだ。異常だといわれても仕方なかった。

エッジ舘野は、「Mr.舘内には不思議な力がある。未来を見る眼力だ」という。そのために、彼は幼いころから差別され、いじめられてきた。常人には異星人と思われたのだろう。自分と違う人間は排斥されるのが世の常である。人は、人と同じでなければ生きづらい。背も、髪の色も、目の色も、皮膚の色も、言葉遣いも、着るものも、考え方も、同じであることを求められる。そのために注意深く隣人を観察し、念入りに他人を真似する。

大事なことは、隣人と同じように、異人を差別し、排斥することである。異人を決して擁護してはならない。それは己が異人であると証明するようなものだからだ。次に差別されるのは、異人を擁護したアナタだ。「Mr.舘内には未来が見えたのでしょうね。しかし、当時の彼は心もからだも病んでいた。心を清め、からだを健康にする必要があった。それでスズカまで歩くことを決意したと思う」

エッジ舘野は、当時を振り返ってそういった。そして、「Mr.舘内の予想通り、470㎞を歩いた彼は、心身ともに健康を取り戻した。いや、それどころか、パワーを付けた。眼力はいっそう鋭くなり、体力をつけた」と、加えた。

舘内端2020年の旅電気自動車コラム 007
九州だ。宿泊した湯布院の旅館の女将と娘さんと

東京日本橋から鈴鹿サーキットまで2週間かけて歩いたMr.舘内を待っていたのは、東京電力がスポンサーとなり、当時国立環境研究所にいた清水浩研究員と東京R&Dの小野昌朗社長が製作した、IZAと呼ばれるスポーツタイプの電気自動車であった。

ジャーナリストとして最初にIZAに試乗したMr.舘内は、「IZAは私を待っていた」といった。そして、「これであれば自動車は排気ガスと石油から自由になれる」と加えた。さらに「フリーダム。自由こそ私が求めていたものだ」と予言者のように呟いたのをエッジ舘野は聞き逃さなかった。Mr.舘内は、鈴鹿まで歩き、自由を発見したのだった。しかし、それはMr.舘内に対する新たな差別の始まりであり、それは今日までの茨の道の始まりでもあった。

東京から鈴鹿までの道中で、一度だけ国道1号線を離れて歩いたことがあった。岡崎近くのことである。ここは1号線の迂回路がなく、東名高速道路も遠く、トラックが集中する。Mr.舘内は、それらのトラックの排気管から排出されるディーゼル排気ガスでめまいを覚えたからだ。そこを退避して歩いた旧国道1号線は、松並木のある石畳みの道であった。「道ってこういうのを言うんだよね」とMr.舘内は感慨深かった。

20数年前にすでに自動車排気ガスの問題を指摘していたMr.舘内は、再び排気ガス問題に立ち向かわなければならなかった。果たして解決策はあるのか。電気自動車といえども、あるいは燃料電池車といえども、火力発電所の電気を使うのであれば、排気ガス問題から自由ではないのだ。乞う。次回。

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