【舘内 端 連載コラム】第39回 近代日本史:内燃機関自動車が崩壊する

新シリーズ 舘内端の自動車進化論

■騒動の決着はついた

世界を震撼させた「2017年電気自動車騒動」は、私には早々に決着がついたと思える。どんな決着かというと、世界の自動車はすべて電気自動車になるというものだ。

まだ「エンジン車VS電気自動車」などと対立図式を掲げての議論や、「エンジン車絶対」を主張する向きもあり騒がしいが、すでに世界は電気自動車で行くことに決まってしまった。

しかし、私たちには真剣に論議しなければならないことがある。人間と科学・技術の関係だ。あるいは人間が作ってしまった「科学・技術による人間性の破壊と自然からの収奪」について考えることである。そして、私たちが、ごくフツウのものとして考えている資本主義についてもだ。

科学・技術、そして資本主義というシステムは、ほんとうに人間を幸せにするのだろうかとまじめに考えたい。もちろん、自動車も科学・技術の結果であり、資本主義の中で拡大を続けている。自動車はほんとうに人間を幸せにしたのか。そして幸せにしているのだろうかと、問わなければならない。

自動車にかかわって45年余り。日本カー・オブ・ザ・イヤーの選考委員を35年も勤めた私は、自動車に大変な恩義を感じている。自動車なくして私の人生はない。そして、自動車とかかわる中で、多くの人から教えられ、助けられてきた。

自動車を愛し続けた私は、これからも自動車が存在してほしいと思っている。自動車への感謝と私を育てていただいた多くの方たちへの感謝をこめて、自動車の未来永劫の存続のために、自動車を論評し続けるつもりである。

■電気自動車は「進化」の正しい結果

さて、冒頭で世界の自動車は電気自動車になることが決まったといったのは、電気自動車的なものを「正しいもの」として選ぶように世界は進んできたからである。世界はエンジン車の存続を選ぶようには進んでこなかった。電気自動車を選ぶように進んできたのである。

そうした進み方を人は「進化」と呼ぶ。これは私たちの住む世界の在り方だ。私たちの現在は、そのように世界が「進化」してきた結果である。その「進化」とやらを決める価値観はいったい何か。いったいどのような価値観なのか。じつは、私たちは知っている。だが、あまりにも普通の価値観のために気づかないのだ。

今や多くの人が現在の世界の在り方に疑問を抱いている。「進化」の結果を手放しで喜んでいるわけではない。これはきわめて重大だ。「進化」に疑問符が付けられている。

それでも自動車は「進化」し続けている。その結果が、電動化であり、自動運転化であり、コネクテッド化であり、カーシェア化である。自動車を愛してきた人たちの思う自動車とは、おそらくまったく違う物体になろうとしている。

■あなたのあの自動車はどこへ

あるいは少し古い話だが、ATになったのも、パワステになったのも、ABSになったのも、自動車の進化の結果だ。その結果については、それを可能にした科学も技術も責任は負わない。それは、それが自動車の「進化」であり、進化は正しいからだ。

エンジンにクランク棒を差し込んで危険を顧みず始動した人たちは、セルフスターターの付いた自動車など、自動車とは呼べないと思ったに違いない。だが「進化」のためにクランク棒はセルモーターに置き換わった。そして、クランク棒式始動時代に比べれば、ずっと多くの人が自動車に乗れるようになり、大量の自動車が売れるようになった。そして、自動車が大量に売れることを持って「進化」したと評論し、技術者は「正しいことをした」と褒められたのであった。

そうして(エンジン)自動車が世界に13億台も増えたことで、大変な問題が起きているのは、ご存じのとおりである。しかし、これは「進化」の結果だから、だまって受け入れるしかない?

■電気自動車の選択は自動車関係者の懺悔

少しばかりEVの味方をすれば、自動車の進化の多くは「安全」、「便利」を旗印に、より儲かるようにという戦略で行なわれたにもかかわらず、EV化はこれまでの自動車の「進化」に対する懺悔である点だ。

これ以上、地球温暖化を進めるわけにいかないという選択である。あるいは、これ以上、石油をめぐる紛争を拡大できないという選択でもある。そして、その結果、自動車産業は、まずはEV化で不要部品が増え、結果として4割ほど規模がシュリンクして、最終的には現在の「自動車」の形態を留めない何者かに自動車が解体される道を選んだのである。

EV化とは、「内燃自動車」は残らないが世界というか、地球というか、人類は生き残るという自動車自滅型の選択なのだ。

このような(新しい意味での)「進化」あるいは「変化」は、多くの分野で起こってきた。起こらなければ人類に未来はなく、まだ見ぬ世代のためにも起こさなければならないのだから同然である。

EV化とは自動車がようやくそうした「進化」の道を選んだということなのだが、他の分野に比べれば半世紀は遅い。いわば遅れた分野なのである。だから「エンジン車か電気自動車か」などという論議はまったくの茶番に過ぎないのだ。

■自動車における資本主義の末路

一方で、EV化は自動車における資本主義の末路であるともいえる。自動車は資本主義と共に歩み、資本主義に支えられ、資本主義を拡大し、現在に至ったのだが、どうも資本主義がおかしい。それは自動車産業が如実に示している。

資本主義は拡大しないと生き延びられない。サメが泳ぎ続けないと生きていけないのと、良く似ている。そのためには、つねに未開の市場、市場としてのフロンティアが必要である。だが、中国を極め、インドを極めようとしている現在、中国やインドのように発展が望めるフロンティアは、もうアフリカしかない。

それでも自社を拡大するとすれば、他社のマーケットを奪うしかない。これは拡大こそが使命である資本主義的自動車産業の末路といってよい。そして内燃機関自動車としての技術「進化」を終えた現在、残されたマーケット刺激型技術は、つまり市場のフロンティアはEVしかないのである。そこに自動運転も、カーシェアも、ライド・シェアも、コネクティッドも重なっている。

じっと耳を澄ませると、上記の技術=テクノロジーは不要だというあなたの「正直な」声が聞こえはしないだろうか。あれば使うかもしれない。しかし、積極的に欲しいとは思わない。そんな「正直」な声がだ。少なくともこれまでの熱い自動車ファンにとっては、そんなモノは不要である。

■思えば、「なぜこんなものが…」

と思う装備が付き、その種類が増え、機能を高度化してきたが、それこそが自動車の進歩やら進化やらだと呼ばれてきた。

そうしたギミックの中で、自動車のサイズの拡大はもっともわかりやすい例だ。知らぬ間に3ナンバーのボディ幅がフツウになり、7人乗りは小型も大型もSUVの必須となったが、誰も頼んだわけでなく、家族の平均が7人になったわけでもない。

だが、資本主義はサメのように泳ぎ続けなければならず、拡大こそが自動車における資本主義なのだと思えば頷ける。しかし、それは自動車が限界に達したというか、末路に至った証拠だと思わないではない。

もし、それでもこれが自動車の「進化」なのであると言うのであれば、私たちは「進化」なる価値を疑わなくてならない。進化は正しいという家庭でも学校でも職場でも教えられた、ごくフウツの価値観を疑わなければならない。フツウが怪しい。

■自滅型テクノロジーが出現

EV化は先に述べたように自動車メーカーにとって自滅型技術でもある。しかし、そこにいかざるを得ないのである。

自動車の進化と共に、自社の発展、拡大と共に人生を送ってきた人たちにとっても、自動車をこよなく愛してきた人たちにとっても、130年からの歴史をもつ自動車が自滅し、あらぬ姿に化けていくのは、なんとも哀しい。
だが、こうした終末は日本に限れば、明治維新にすでに仕組まれていたのだった。

次回に続く。

COTY
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